浄土真宗本願寺派 西恩寺

青空

 

 

●西恩寺法話会に中学生参拝

 先日の西恩寺定例法座「いきいき法話会」に学生服を着た女生徒が二名初めて参加してくれました。法事などで親と一緒にお参りに来ることはありますが、自分たちだけで参加されることはめったにありません。
 初めて来てくれたので、挨拶をすませ、早速参拝記念に腕輪念珠を差し上げて、みんなでいつものように正信偈を勤めました。お経の後、休憩に入りお茶をいただきました。中学生も屈託なく笑顔で一緒に私の隣の席に座りました。聞けば領家中学の三年生とのこと。今日は土曜日で学校は休みだけど、部活があり、帰りに来たそうです。
 どうして法話会に参加してみようと思ったのか尋ねますと、授業でお寺のことが出てきて、先生が近くのお寺で法話会があって仏教の話も聞けるらしいと聞いて、自主的に参加したそうです。その先生もお寺の入り口の掲示板を見られて生徒に話されたことかと思います。
 休憩の後、本堂で法話をし中学生にも分かりやすい「いのち」の話に、熱が入ったことでした。
 

 

(2015年6月9日 写真 西恩寺のクジャクサボテン)

●遺言について

 故人の遺言で法名は付けないという家族が時々あります。
 そもそも法名は仏弟子としての名前です。だから浄土真宗の法名には必ず釋尊の「釋」という字が頭に付きます。この法名は、自分自身が我が人生を仏様の教えを聞きながら精一杯生き抜きますという思いで、生前にいただくことが望ましいことです。
 その法名を否定すると言うことは、仏教を否定していることと同じです。今後一切、葬儀もしない一周忌も勤めないと言うことであれば、そのような考え方も、あるのかもしれません。しかし残された側から言えば、愛する人を亡くし大きな悲しみの中にいる時だからこそ、逆に仏様の慈悲の心にふれることが出来るのかもしれません。
 親鸞聖人は、私どもが大きな悲しみを縁として、お念仏と共に力強く乗り越えて行く道をお示しくださったのです。
 その芽を摘むような遺言は慎んだ方が良いでしょう。
 

 

(2016年5月9日 写真 建長寺の蓮)

●元ハワイ教団総長 与世盛智海師逝去

 去る4月13日、ハワイ教団元総長の与世盛智海師(84歳)がお亡くなりになりました。私にとっては大先輩で、とても穏やかな先生で、私がハワイの開教使をしている時には大変お世話になった先生です。
 2003年に日本に来られた折り、東京エリアにいる元ハワイ教団の開教使が、与世盛先生を囲んでみんなで集まったことが、今では良き思い出となりました。

 

(2016年4月29日 写真 2003年 左から二人目与世盛総長と元開教使)

●西恩寺玄関に仏画

 この度、西恩寺玄関の右壁に、新しい仏画が完成しました。この絵の作者は22年前に西恩寺建立時に、 玄関左壁に蓮池の絵を描いてくださった佐藤 雅画伯です。今年に入って、それこそ二十年ぶりにお会いし、一枚絵を描いていただけないかと頼みましたら、快諾して下さり、やっと完成した次第です。今度お参りに来られたらゆっくり見て下さい。
 余談ですが、この絵の画材は雲肌麻紙というもっとも古い形態の和紙だそうです。“絹は千年、麻紙は万年”といわれるほどに丈夫な紙だということです。お寺と共に末永く受け継がれて行けばと思うことです・・・
(高さ180センチ、横90センチ )

 

(2016年4月28日 写真 西恩寺玄関右仏画)









●葬儀について

 最近とても気になるのですが、かけがえのない人が亡くなられても、一日葬といって通夜をしないで葬儀しかしない家族や、まったく通夜葬儀もしないで、直接火葬してしまう家族が、ちらほら見受けられることです。
 何年か前、密葬という名の下に、周りの方に知らせないで、ひっそりと故人を送る葬儀が行われるようになり、当時私はせめて親しいご近所の方ぐらいは、お互いに長年お世話になりましたという思いで、声ぐらい掛けても良いのでは・・と危惧しておりましたが、それも繰り返されるうちに段々と定着するというか、慣れてしまい、近頃は家族葬という言葉まで浸透して、会葬者無しということもあります。
 そう考えますと、徐々に葬儀の形式も時代と共に変わりつつあるのかもしれません。決して派手な葬儀を進めているわけではありません。しかし人一人が人生を終わられたとき、私たち人間は「いのち」のはかなさを通していろいろなことを考えます。それぞれのつながりの中で、お互いに見えるところで、あるいは気づかなかったところで、お世話になったり、大きな思いの中に見守られていたり、あるいは迷惑を掛けていたのではと気づくこともあるでしょう。
 亡くなった人の為に葬儀をしなければその人が救われないという教えではありませんが、かけがえのない人の死を通して私自身が、仏法に出遇と言うことが大切なのです。目まぐるしい現代社会の中で、慌ただしく生きている私たちですが、せめて愛する人を亡くしたときぐらい、心静かにみんなで手を合わせ、仏様の慈悲の心にふれてみてはいかがでしょうか?

 

(2016年4月20日 写真 建長寺の蓮)

●鉾田市まで納骨に

 茨城県鉾田市まで納骨に行ってきました。11年前からご縁のある方で、折々に鉾田市から西恩寺までお参りに来られていた家族です。今回新しくお墓が出来たと言うことでお参りさせていただきました。片道160キロくらいあり、11年間遠いのに良くお参りに来られたなあと、感心しました。たまたま朝のニュースで、ひたち海浜公園のネモフィラが見頃だと言うことで、法要の後、足を伸ばしてみました。お天気も良く平日で、見物客もほどほどで、とても綺麗でした。
 ここまで来ましたら、茨城と言えば日本三名園の一つである三戸の偕楽園は目と鼻の先です。私にとって初めての三戸訪問です。梅が有名だそうで次回は是非梅の季節に行ってみたいものです。
 日本も四季折々に見所満載です。やはり“住職はとび職”と言うことで、これからも精力的に動き回りたいものです。

 

(2016年4月13日 写真 ひたち海浜公園ネモフィラ)

●願う前から願われている私

 桜の花も咲き、一雨ごとに春らしくなってまいりました。今日は西恩寺の定例法座「いきいき法話会」の日です。
 宗教といいますととかく「祈りなさい、拝みなさい」という言葉が強調されますが、浄土真宗の親鸞聖人の教えは、拝む前から拝まれ、願う前から願われていた私であったと、聞かせていただき気づかせていただく教えです。
 生まれてこの方、一度たりとも親に向かって「どうか私のことを精一杯育てて下さい。」とお願いしたことがありますか?もっと言えば生まれる前から親というものは我が子のことを心配し、無事に生まれてきてほしいとひたすら願い続けて誕生し、見守られ育てられてきたにもかかわらず、一人で大きくなったような顔をしているのが、この私ではないでしょうか。勿論、みんながみんなそうだとはいえません。中には親の顔を見ずに育った方もおられるかもしれませんし、中にはあまり恵まれた境遇だったといいきれない方もおられるでしょう。しかしよくよく振り返ってみて下さい。必ず親に代わるどなたかの助けをかりて成長してきたことに、気づかれることと思います。我々人間は決して自分一人の力では育つことは出来ません。目に見えるところで、又目に見えないところで、多くの方々の思いや願いを受けて、生かされ育てられているのが、他でもないこの私であったと気づかされるはずです。
 日頃の忙しさの中で、ふと見失いがちな大切なことを、手を合わせながら取り戻して行きたいものです。

 

(2016年4月9日 写真 横浜・三渓園)

●子供は、親の姿を見て育つ

 先日葬儀にお参りしたときのことです。式も終わり故人との最後のお別れの時です。棺のふたを開けて、それぞれが棺の中に花を供えて手を合わせます。ふと見ると父親に抱えられた小さな女の子が、そばに居る母親の合掌している姿を見て、同じように手を合わせているのです。
 後でわかったことですが、その子は故人の孫にあたり二歳と三ヶ月になったばかりだそうです。親の姿を見て同じように小さな手を合わせている姿は、とても感動的でした。
 近頃手を合わせることも、頭を垂れる姿もなかなか見ることが少なくなってきたような気がします。その日は二歳の子供に大切なことを教えていただき、なんだか心が安らいだことでした。

 

(2016年3月23日 神田川の桜)

●新たなる年

fujisan

新たな年を迎え、気持ちも切り替えて一歩一歩着実に歩んで参りたいと思う今日この頃です。

久しぶりの更新に、いささか戸惑いと不安を抱きつつ・・・・

 

(2014年2月12日 写真 富士山と夕日)

 

 

 

 

●ホームページの再開です

飛行機

長い間、西恩寺のホームページも開店休業状態でしたが、お陰様でようやく再出発ができそうなところまでこぎ着けました。  
これから微力ではありますが、少しでも多くの方々が、浄土真宗の教えに共感を持たれ、お念仏の喜びの輪が広まって行けばという思いで、取り組んで行きたいと思います。

よろしくお願いいたします。

 

尚今回この日を迎えるにあたってご尽力下さった正善寺ご住職並びに上坂様には感謝申し上げます。               南無阿弥陀仏 (2013年1月29日  写真 羽田空港第2)

●肩たたき

肩たたき

 子供の頃、親の肩たたきをよくさせられました。子供心に自分が大人に成って子供が出来たら、我が子に肩をたたかせようと思っていました。  やがて結婚し子供が小学生になったある日のこと、我が子が「お父さんここが痛いの」と首のあたりを押さえています。どうしたのかと思い触ってみると、なんと肩が凝っているのです。かわいそうになり思わず我が子の肩をもんでやったことです。近頃の子供は、少子化の中で親からの期待度や関心度も高く、習い事や塾におわれて、のびのびと遊ぶことも出来ず、ストレスを感じながら日々を過ごしていたのでしょう。なんと肩がカチカチに凝っていたのです。そう思うと不憫になります。  当の私はいつまで経っても自分の肩はもんでもらえないのですが、そのうち跡取り息子から「お父さん もうそろそろ・・・」と、肩たたきされるのが、関の山でしょう。    南無阿弥陀仏 (2012年12月23日 )

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